嘘のようでほんとの話

普段はよほど急いでいたとしても「本気の」駆け込み乗車はしてこなかった。目の前で閉じ始めているドアに突っ込んでいく気概は持ち合わせていなかった。むしろ、ぎりぎりで駆け込んで来て、その後車内放送で「駆け込み乗車は危ないですのでお止め下さい」と言われているサラリーマンや学生を見ながら内心「迷惑なやつらだ」なんて思っていた方の人間だった。けれどこの日、どういうわけか駆け込み乗車を本気で行った。閉じ始めているドアに体ごと突っ込んでいった。そして何とか間に合った、とほっと一息ついたとき、事件は起こった。
ガシャンとドアが閉まると、何故か身体と左手が引っ張られる。おかしいなと思って確認してみると、コートの左半分と左手に持っていた通勤用の鞄がドアに挟まっているではないか。しかも挟まっているのはちょうど鞄の持ち手のところだけで、鞄本体は狙ったかのようにドアの外側に出ている。
駆け込んだ場所は先頭車両でかつ一番手前のドアだったので、目の前に車掌も居てこのことを確認。最後列の車両に乗っている運転手に旗を使ってドアを開けるように知らせている。それを見て「あぁ良かった、ちょっと恥ずかしいことになったけど、ドアが再度開いて無事挟まりが解消されるだろう」と安堵した。実際に他人のそういった場面を良く見ていたし。
しかし、本当の異変はそこからだったのだ。前述のようにうまいことコートと鞄の持ち手だけ挟まっていたので、ドアに挟まった部分がかなり薄く、ドアのセンサーには関知されない。そして頼みの綱だった車掌も、必死に運転手へ向かって旗を振っているものの全く気付かれていない。良く見るとその車掌は若く、いかにもまだ新米といった面構え。こりゃやばいんじゃないかという危惧が頭をよぎったが、正にその通り。電車はこの事実に気付くことなく進み始め、ドアにコートの左半分と鞄を挟まれたままプラットホームは遠ざかり始めた。
そしてそんなとき、呆然としながらも視線で追っていた新米車掌は、途中で諦めて、こともあろうに肩をすくめやがった。まるで「 ┐(´д`)┌ヤレヤレ 」とでも言いたげで、こっちはそれこそ「…. ツ・o・)ノ・△・)ツ・o・)ノ彡☆ちょっと~ちょっとちょっと」っていう気持ちで遂に車外は真っ暗闇に。そのドアの外に見えるマイバッグ。そこには非日常があった……。
気を取り直して冷静になろうと一息つき、状況を把握する。ドアから車外に出ているのはコートの端と鞄まるごと。ただ鞄もうまいこと空気抵抗を受けながらドアにくっついているので、壁などとぶつかる心配は無さそうだ。コートもポケットに入ったままの携帯電話が気になるところだけれど、コートの素材が衝撃材になるだろうし大丈夫だろう。ここでひとまず最低限の安心感は得られた。
次に車内。さすがにこの状況は恥ずかしすぎると思い恐る恐る見渡してみると、なんと誰一人としてこの状況に気付いてやしない。都会は他人に無関心というけれど、正にその通り。妙に感心してしまったが、今はそんな場合ではあるまい。
気付かれていないことをいいことに、このままシラを切ろうと判断し、「ドアに単にもたれているだけの乗客ですよ」アピール。実際はコートも、左手の先にある鞄も車外で、そこから動こうにも動けないのだけれど。でもこうしておけば車内では気付かれず、次の駅でドアが開いた時に何食わぬ顔をすれば精神的被害は最小限だろうと踏んだわけだ。この緊急事態に冷静な判断、我ながら天晴れである。まぁいくら威張ったところでこの状況事態は間抜け以外の何物でもないのだが。
考えもまとまって、あとは数分ガマンして次の駅でドアが開くのを待つだけだ。そう考えると何とも無い。ちょいとオイタをした程度だ。さぁまだかまだか高田馬場は。お、ようやく到着だ。さぁさぁ我を助けて下さいまし。開けゴマ、開けドア。だなんて色々頭の中ではフレーズを思い浮かべつつ高田馬場に到着。さあドアよ開け!
……ってあれ? 反対側のドアが開きました。コレは困った。さすがにその展開は思いつかなかったぜ。んじゃもう一駅待ちましょうかね。
……早稲田。逆。次。神楽坂。逆。次…って、もしやずっとこのままかとまたもや目の前が真っ暗に。しかも車内は混み始めて来ているし。
確かめずにはいられない、唯一の身体的取り柄である視力の良さを駆使し、路線図を確認。すると、こちら側のドアが開くのは、実に最初に乗り込んだ駅から7駅目の大手町まで開かないでは無いか。ここまで来るとこの状況に呆れてもう何の考えもなく、ひたすらこの流れに身を任せようと観念したのだった。
そしてその男は事件発生からおよそ16分後、先頭車両の一番先にドアが丸ごと出ているという非日常な光景を目撃した数十人の乗客に見守られながら、大手町駅で無事保護された。
事件後、男は「駆け込み乗車はもう二度としません。すいませんでした」と語ったという。
「周りの事に興味がない」「諦めが早い」といった現代の風潮を良く反映した、悲しい事件だった。
※この話は全てフィクションであり、実際の事件、人物等とは一切関係がありません……と言えれば良いのに。